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商業界オンライン 小島健輔からの直言
『ライセンスブランドに未来はあるか』 (2018年09月25日付)
小島健輔 (株)小島ファッションマーケティング代表取締役

 三陽商会がバーバリーショックからいまだ立ち直れずに3度目の希望退職募集に追い込まれる一方、三陽商会を切り捨てた英バーバリー社とて業績が伸び悩んで売れ残り品の処分に苦慮している。そんなタイミングで朝日新聞は『ライセンス商品 縮む市場』と題してブランド価値の在り方を問うていたが、果たしてライセンス商品とそのビジネスに未来はあるのだろうか。

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衰退するライセンスビジネス

 ライセンス商品は衣料品・服飾品のみならず、食品や薬品、かつては乗用車まで存在したが、国内メーカーの開発力とブランド力が高まるにつれ、次第に姿を消して行った。50年代にはいすゞ自動車が「ヒルマンミンクス」、日産自動車が「オースチンA40」を生産していたことを記憶しておられる方もあるのではないか。今日でも発展途上のアジアや南米では似たようなライセンス生産が行われているが現地企業の進化も速く、独自ブランド製品への切り替えも進んでいる。

 ライセンスビジネスは先進国との技術や市場成熟度の格差で成立する“非対称ビジネス”であり、ライセンシー側の進化や市場の成熟によっていつかは解消される。薬品や乗用車ではライセンシー側が技術を習得して独自ブランドに転ずるのが一般的な構図だが、衣料・服飾分野では逆の構図が繰り返されてきた。

 日本国内の衣料品市場規模は00年から16年にかけて75掛けに萎縮したが、衣料・服飾・一般雑貨ライセンスブランド市場はこの間に1兆9868億円から1兆1800億円まで6掛けに萎縮したと推計されている(矢野経済研究所)。衰退が著しい衣料品より一段と萎縮したのだから、この間にライセンス商品から独自ブランド商品への移行が進んだことになるが、事情は逆だった。

ライセンスビジネスは裏切りの歴史

 1970年(輸入販売は65年から)から45年も続いた英バーバリー社とのライセンス契約が打ち切られ、全社売上高の半分強(14年12月期売上高1110億円中560億〜580億円だったと推計される)にも達していた「バーバリー」売上げを失った三陽商会の業績悪化に歯止めがかからないが、同社の場合は09年に20年契約を15年に短縮された時点で打ち切りが予想されていた。もっと酷かったのは寝耳に水の打ち切り通告で売上げを失ったカネボウとデサントのケースだ。

 契約打ち切り当時、カネボウのディオールは500億円、デサントのアディダスは400億円近くを売り上げていたが、アディダスこそ98年2月19日のジャパン社設立から同年末の打ち切りまで多少の時間があったものの、ディオールは97年2月7日に同年4月30日の打ち切りを通告という、全くの寝耳に水だった。

 カネボウはディオールのライセンス契約打ち切りを契機に業績が急激に悪化し、07年6月の会社解散決議に至るという悲劇となった。デサントも直後の3期間は赤字に転落して人員整理に追い込まれ、伊藤忠商事と資本提携して自社ブランドと韓国事業を育て業績を立て直したが、売上げの回復には16年も要している。

ラルフローレンは大人の引き継ぎ

 そんな悲劇にならず、大人の話し合いで引き継いだのが米ラルフローレンとオンワード樫山のケースだ。ラルフローレンは76年に西武百貨店とライセンス契約して本格上陸し、86年にオンワード樫山とラルフローレン専業の合弁会社インパクト21を設立。97年11月には東証二部に上場、99年8月には東証一部に指定替えしている。ほぼ20年を経た07年、直販戦略に転じたラルフローレンがオンワードの持ち株を210億円で買い取ってTOBで市場からも全株を収得。完全子会社化した上でジャパン社に吸収、08年2月に上場廃止した。

 オンワード樫山の場合は合弁会社に出資していたから市場開拓の報酬を得られたが、ライセンス契約だけだった他3社は一方的に打ち切られて売上げを失うだけに終わっている(正確には、デサントは打ち切りの代償に「arena」のアジア・太平洋地区事業権を取得している)。

欧米ブランドビジネスの直販戦略

 欧米の高級ブランドがグローバル統一の流通統制に動き出したのは90年代も末からで、それ以前は国ごとに代理店を設定したりライセンス契約したりと統一を欠いていた。そんな高級ブランド業界に独資現地法人による直営店ビジネスモデル(ラグジュアリーSPA)を打ち立てたのが秦郷次郎氏で、81年に設立されたルイ・ヴィトン ジャパンはルイ・ヴィトン社、そしてLVMH社の世界展開の基本となり、今日に至る高級ブランドビジネスのデフェクト・スタンダードとなった。

 先行するルイ・ヴィトンに他社が追従してジャパン社を設立するようになったのは80年代末のバブル期からで、グローバル統一展開に動き出したのは途上国が市場化し始めた90年代も末に近づいた頃からだ。ディオールがカネボウを切って直営店展開に転じたのは97年4月末、アディダスがデサントを切ったのは98年末、ラルフローレンが米国でライセンス契約を整理して直販に転じ始めたのは03年からで、インパクト21をジャパン社に吸収したのは07年だった。

 それに比べるとバーバリー社の直販化の決断は遅きに失したほどで、「三陽バーバリー」の人気があまりに高く、卸売上げの15%といわれたライセンス料収入が膨大だったからと推察される(最終年度で5000万ポンド/当時のレートで約87億円)。

直販戦略もハードルが高い

 ブランド企業がローカルのライセンシー企業を切って独資現地法人による直販展開に移行しても、ライセンシー企業が築いたマーケットを回復するには切られたライセンシー企業が売上げを回復させるのと大差ない時間がかかる。ローカル対応したからこそ獲得できた事業規模を海外のブランド企業が再構築するには、知名度や販路など基盤を受け継いでもアウェイの障害を覚悟しなければならない。世界統一のブランディングと流通統制に固執して直営店に販路を絞り、ラグジュアリー価格を通すならなおさらだ。

 クリスチャン・ディオールがカネボウとのライセンス契約を打ち切った97年当時の日本売上高は500億円に達していたが、直営展開でその市場規模に回復させるのに15年も要した。バーバリー社はインポート商品の直営店展開に切り替え、日本売上高を打ち切り直前の2500万ポンド(42億円)から3年で170億円まで拡大する計画だったが、店舗数こそほぼ計画通り、39店舗に拡大したものの計画売上げに達したとは発表していない。「三陽バーバリー」の市場規模を復活させるにはさらに十年以上を要するのではないか。

 唯一、順調に事業と市場を受け継いだのがラルフローレンで、インパクト21の子会社化には買収費用を要したものの販路も人員も生産背景も受け継ぎ、落ち込みの時期もなく順調に売上げを拡大。売上高は非公開だが現在は440店舗を展開して卸売も継続している。ラルフローレンの場合はインポート一本にも直販一本にも絞ったわけでなく、ライセンス生産や卸売も独資子会社が受け継ぐというローカル対応が市場の継承と拡大に貢献したと見るべきだ。

ブランド買収という逆手

 ライセンシー企業はブランド企業に使い捨てられるばかりとは限らない。ライセンス契約が切れるリスクを確実に回避するには、ブランドの権利かブランド企業を買収してしまえばよい。

 実際にそうしたのが1970年に「ダックス」のライセンス生産を始めて91年に会社ごと買収した三共生興のケースだが、安定は得られても売上高は伸び悩んでいる。レナウンの「アクアスキュータム」のケースはさらに複雑で、90年に買収したもののうまくいかず09年に英ブロードウィックグループに売却した上でライセンス契約は継続。その後、香港のYGMトレーディングを経てレナウンの親会社、山東如意が獲得してレナウンが日本国内の商標権を取得し、ライセンスが継続されている。

 アディダスにライセンス契約を打ち切られて辛酸を舐めたデサントは、84年から所有している「マンシングウエア」に加えて「ルコックスポルティフ」などライセンスブランドの地域商標権(アジア・日本)を次々と買い取り、18年3月決算では自社ブランド44%/商標権所有ライセンスブランド48%/非所有ライセンスブランド8%の売上構成に至っている。        

グローバル統一からローカル対応へ

 ファッションブランドのグローバルなブランディングと流通のビジネスモデルはごく一部のスーパーブランドを除けば今日も確立されたとはいえず、グローバル統一から個別ローカル対応へ逆行するケースも見られる。グローバル直販展開のブランドも国によっては徹底できなかったり、徹底した故に市場規模が萎縮したり、各国販社間のディストリビューションが硬直化して在庫が停滞したりと混迷は否めず、ライセンス契約やエージェント契約に戻すケースも少なくない。

 アパレルはローカルなもので、直販化しても52週の販売予算や在庫コントロールはもちろん、サイジングのローカル対応も避けては通れず、グローバル統一展開には限界がある。市場規模の拡大と流通効率を考えればローカル対応は不可欠で、ローカル企業との合弁やライセンス契約はなくならないだろう。各国のマーケットが変貌していく中で適時、最適な解を求められるのがブランドビジネスの現実ではないか。

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