小島健輔の最新論文

ファッション販売2006年1月号掲載
連載『小島健輔の経営塾』
(株)小島ファッションマーケティング代表取締役 小島健輔

経営者は神鬼のごとく

 今朝の日経に、ファーストリテイリング社長を辞めた玉塚元一氏と既に副社長を辞めて投資ファンドのキアコンをやっていた沢田貴司氏が組んで企業再生ビジネスを始めるという記事が大きく出ていたが、二人が異口同音に「農耕型の企業再生をやりたい」と発言していたのが目を引いた。なるほど、それが柳井さんと彼等の相容れなかった線だったのかと納得させられた。
 どちらが辞めた時も柳井さんは突撃を叫び、ラインのヘッドである彼等は伸び切った兵站に冷や汗を流していたに違いない。彼等は誠実なCOOであり、柳井さんは野望に燃えるオーナー経営者であった。私はどちらも正しかったと思っている。これが事業責任者(COO)と経営者(CEO)の決定的な違いなのだ。
 事業責任者は経営者や役員会に説明出来る戦略/戦術を組み立て、組織の体力と成果を検証しながら前後左右を慎重に見て実績を積み上げて行く。経営者は自分の野望を誰に説明する必要もなく、組織の中も外も見る暇も無いスピードで突っ走ろうとする。株式公開企業なら株主に対する説明責任があるはずだが、大失敗しない限りは事後承諾を押し付けられる。いちゃもん付けられたくなかったらMBOで非公開化すればよい。
 経営者にしてみれば、事業責任者達はトロトロウジウジでスピードが無い。事業責任者にしてみれば、経営者の要求は検証を欠いて危なっかしく性急だ。どちらも正しいが、事業責任者はテクノクラートであり、経営者はクリエイターなのだ。壮大な、あるいは狂気の戦略構想を夢想し(裏付けも検証も不要)、天地風水の一瞬の転機を捉えて決断して怒濤のごとく突進して行く。ああだこうだと迷っていては勝機は逃げてしまう。決断と行動のスピードが成否を決するのが経営者の世界なのだ。
 それでは戦国武将みたいではないかと言われるだろうが、衆議院の解散総選挙における小泉首相の読みと決断、怒濤の遂行を目の当たりにして、リーダーとはかくあるしかないと思った人も多いに違いない。当然、指揮に従わぬ者は粛正する。ライバルも圧殺する。経営者とは実に恐ろしい神鬼のごとき存在に思えるだろうが、正しくそうだ。
 神鬼のごとく決断し怒濤のごとく動けないCOOに柳井さんが痺れを切らし、自ら指揮を取るに至ったというのが実態であったのだろう。彼等は有能ではあっても生身の人間であり、結局は神鬼を演ずる力量はなかった。
 では柳井さんに神鬼のような戦略展望があるかと言うと、それも疑わしい。買うべき会社を勘違いしているし、欧米への進出方法も稚拙で、国内の新規事業も決定打を欠いている。かつてのミッキー・ドレクスラーかドミニコ・デソーレのごとき誰かが登場しない限り、柳井さんの夢も空回りするしかないのだろうか。

引き時/待ち時を知る

 では経営者は怒濤のごとく走り続ければよいのか。それでは必ずや破綻してしまう。常勝ナポレオンのモスクワ遠征、ノモンハン会戦やミッドウェー海戦、身近な例ではマイカルやダイエーを持ち出すまでもあるまい。潮目が不利に転じたら突撃を止め、待つ、引くの決断も一瞬でなければならない。世阿弥の「風姿花伝」にも、男時女時の潮目の変化を読み、待つ、引く、攻めるの決断が大切と教えている。
 残念ながら、これも経営者の専管事項で、COOが経営者に先んじて潮目の変時を知る事はほとんどない。動物的な勘は血の匂いを知る暴力的な獣にしか備わらないからだ。逆に言えば、血の匂いを知らない二世経営者が親父と同じ獣の勘があると信じ込んで暴走した場合、その末路はあまりにも悲劇的だ。
 創業経営者は壮絶な血の匂いも優しい母乳の味も知っている。勝利の快感も挫折の苦渋も知っている。男時女時の一瞬の変時も、天地風水の声を聞いて知る。攻撃の絶頂において引くべき時も、一瞬にして頭を切り替える。強者とは対峙しても、足元の弱者を踏みにじりはしない。敗者を全滅するまで追い詰めたりもしない。が、多くの二世経営者はその変時が読めず、突っ走り続けてしまう。不要な戦いを仕掛け、弱者を踏みにじってしまう。不要な追撃をして新手を呼び込んでしまう。愚かしいとは思うが、権力という玩具を世襲したものの大半はこの地獄道に落ちるものなのだ。
 逆にこれでいいのかと思うほど番頭達の自主性に任せ、自分は最低限の指揮発動しかしない二世経営者もいる。一部では昼行灯などと揶揄されながら、好業績を続けているケースも多い。恐らく影では神鬼の決断をしているのだろうが、事業の遂行はCOO達に任されている。人材の質が高く層も厚い場合はこの方法がベターな選択であろう。

経営者がただの人になった時

 どんなに辣腕の経営者とて歳を重ねれば、獣の嗅覚や暴力的な決断力は失われて行く。何歳からとか言うべきものではないが、歳とともにテンションを保てる時間が短くなるのは否めない。神鬼になりきれない時間が長くなっていくのである。それを悟った時、どう動くかが問題だ。世阿弥の「風姿花伝」は、この課題にも少なからぬ紙面を割いている。
 後継者の育成を急ぐ人もいれば、内心の動揺を隠して神鬼を演じ続ける人もいる。後者の場合、始めは演技であっても、長く続けるうちに一種の確信に変質してしまう事がある。初期は意識されていた神鬼の衰えが忘却され、あたかも最盛期のテンションが継続されているかのような錯覚に陥るのである。こうなったら、周りはもう手が付けられない。
 本人は自信満々でも獣覚の衰えは被い難く、見当違いの指令が続発される。周囲はやがて経営者の異変に気付くが、本人にそれを理解させる方法がない。COO達は歯軋りしながら無為な時間を浪費し、業績も翳って行く。これは決して稀なケースではないのだ。
 外部の監査役会や取締役会が機能している開かれた大企業なら経営者に引導を渡す事も出来ようが、そのような会社は極めて稀だ。大部分の会社では経営者自らが現実を悟り、引き時を知るしか回避の策はない。下手をして未熟な二世に世襲させる事にでもなれば、事態はさらに深刻になるかも知れない。

CEOに化けるCOO道を伝授

 神鬼のごとき経営者に何かを教えるなど不可能だ。彼等は自ら時の声を聞いて伝授を求める事はあっても、他人に耳を開かせる事は許さない。私が経営の神髄を教えたいのは神鬼の経営者に仕えるCOO達であり、経営者に先んじて潮目の変時を知る獣の力を与えたいのだ。
 獣の力とは動物的な勘の事ではない。それは真なる獣にしか備わらないものだ。生身の人がそれを手にするには森羅万象の動きを刻々と体系的に掴み、前後左右に自在に打って出れるイージス艦のごとき動態情報処理戦闘力が必要だ。すなわち、テクノクラートのための獣の力を伝授出来たらというのが私の願いなのだ。
 獣の力を手にすれば、何時か神鬼の経営者に化けるチャンスも出て来ようし、経営者を説得する力量も身に付くというものだ。善良なるテクノクラートで終わりたくなければ、神鬼の領域に足を踏み入れなければならない。その契機になれば幸いだ。二世の人たちも、まだ素直な心を残していれば学ぶ事が出来る。偉大な親父は怒濤のごとき鬼であっただけでなく慈愛に満ちた神でもあったのだから。

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