小島健輔の最新論文

ファッション販売2002年11月号掲載
『ラグジュアリーブランドの明暗 =突出するルイ・ヴィトン=』
(株)小島ファッションマーケティング代表取締役 小島健輔

ラグジュアリー市場冷却下で突出する「ルイ・ヴィトン」

 欧州域内と米国の景気後退に9.11テロが加わった昨秋以降、欧米のラグジュアリー市場は急冷却。主要ブランドは絶不況下もラグジュアリー市場が拡大する日本へのシフトを強めて来たが、その日本でもついに今夏、ラグジュアリー市場は急減速してしまった。
 都内主要百貨店特選ゾーンの夏期商戦(5〜7月)では、既に勢いを失っていたエレガンス系に続いてトレンド系ブランドも多くが水面下に失速。鮮度のあるコンテンポラリー系の人気ブランドは勢いを保ったものの、ラグジュアリーゾーンの勢いは急冷却してしまった。勢いがあるのは話題性のある新ラインでトランタン層やOL層を取り込むプロモーションを仕掛けたブランドばかりで、伝統的なラインを固定客に訴求するエレガンス系ブランドやコレクションのインパクトが弱かったトレンド系ブランドは軒並み前年を割り込んだ。その中で、既存店伸び率でも販売効率でも突出した強さを見せつけたのが「ルイ・ヴィトン」だ。
 今夏期の既存店売上伸び率ではコレクション人気が復活した「ジル・サンダー」、若向けのニューラインを次々と打ち出して急伸する「クリスチャン・ディオール」に続いてベスト3に位置しているが、国内売上一千二百億円級の巨大ブランドとしては驚異と言うしかない。しかも、長期に渡って安定した二桁成長を続けているのだから、人気やプロモーションの上手さでは語れない実力を評価すべきであろう。販売効率でも季節的にベスト2となる事はあっても年間では長期に渡って段突首位の座を維持しており、近年は「カルティエ」「エルメス」が続いている。
 ここまでがラグジュアリーブランドの揺るぎなきベスト3であり、以下はコレクションの出来やプロモーションに左右されて効率が不安定なファッションビジネスと区分けせざるを得ない。「ルイ・ヴィトン」は売上規模でも成長力でも販売効率でもベスト3のトップに立ち続ける化け物ブランドであり、それを実現したルイ・ヴィトン ジャパンは精緻なマーケティングとマネジメント、SCMによってファッションビジネスを超えたエクセレント・カンパニーと評価されている。

独走するルイ・ヴィトン ジャパン

 600億ドル市場と言われるラグジュアリービジネスで抜きん出た存在のLVMHグループ。総売上は122億2900万ユーロ(約1兆4200億円、1ユーロ=116円換算、以下同)、ピークからは二割ほど減少したとは言え営業利益は15億6000万ユーロ(約1800億円)、営業利益率12.8%を誇るラグジュアリービジネス最大最強のコングロマリットだ(2001年12月期)。展開するジャンルはファッション&レザーグッズからパヒューム&コスメティックス、ウォッチ&ジュエリー、ワイン&スピリッツ他に及び、これらに「セフォラ」や「DFS」等のセレクティブ・リテイリング部門を加えた全世界の法人数は500社を超える。
 LVMHグループの日本法人は昨年末時点で25社を数え、2001年度の売上高は約2060億円と国内アパレルメーカー第2位のワールドの連結売上(2198億円)に迫り、営業利益は359億円と同首位のファイブフォックス(228億円)を遥かに上回る。その中核企業がルイ・ヴィトン ジャパンであり、2001年度(1〜12月)の売上は17.5%増の1179億円、2001年3月決算の申告所得は256.5億円に達っする。グループ日本法人合計売上の6割近く、利益は7割強を稼ぐのみならず、LVMHグループ本体にビジネスモデルの範を示す別格のリーディングカンパニーと位置付けられている。
 2001年3月期の売上対比申告所得は25.6%とラグジュアリーブランド日本法人の中でも突出して高く(92年以降、22.2%〜26.4%と高水準で安定)、エルメス・ジャポンもグッチグループ・ジャパンもシャネル日本法人も、率でも額でも遠く及ばない。国内ファッション企業全体で見ても、来期はルイ・ヴィトン ジャパンがファーストリテイリングを逆転して利益額首位に立つ可能性が高い。  他のラグジュアリービジネス日本法人では「カルティエ」「ダンヒル」等を展開するリシュモン・グループの売上が863億円に達するが、LVMHグループ日本法人の半分にも満たず、ルイ・ヴィトン ジャパン1社にも及ばない。10年前は拮抗していた「グッチ」「シャネル」「エルメス」等はいずれも400億円台と、大差がついてしまった。
 「ルイ・ヴィトン」ブランドの世界売上は公表されていないが、97年度からの4年間で2倍の3048億円まで拡大したと推測されている。単純計算すればルイ・ヴィトン ジャパンは世界売上の約39%を占め、平行輸入や日本人観光客の海外購入も含めた日本市場依存度は65%に達すると推計される。ルイ・ヴィトン ジャパンの卓越したマーケティングとビジネスモデルには後で触れるとして、日本の消費者を捉えて離さない「ルイ・ヴィトン」そのものの魅力の要因はどこにあるのだろうか。

「ルイ・ヴィトン」ブランドの魅力とは

 「ルイ・ヴィトン」は1854年、初代ルイ・ヴィトンがパリのカプシーヌ通りに開いた旅行鞄専門店に始まる。防水キャンバスの「グリトリアノン」を素材とした馬車や客船、汽車用の箱型トランクやワードローブ型の大型トランクで名声を得、2代目ジョルジュ・ヴィトンが1896年、初期のダミエ柄(これもジャポニスムな市松柄)に加えて偽物対策にあのジャポニスム調のモノグラム柄を採用した事で認識が高まり、二十世紀初頭までにはブランドイメージが確立されたと伝えられる。当時はアールヌーボーの潮流下、画家や文化人の間でジャポニスム人気が高揚しており、2代目ジョルジュ・ヴィトンはそのハイソでアートなイメージを活用したのであろう。3代目以降、自動車、飛行機と旅行手段が進化するとともに、より軽量で機能的な旅行鞄を開発してラインナップを拡充し、進歩的な上流階級の支持を確実なものとしていった。
 その「ルイ・ヴィトン」が大衆に拡がる契機となったのが、1976年のパリにおける多数の並行輸入バイヤーも含む日本人客の殺到であった。以降、「ルイ・ヴィトン」の大衆化とビジネスの拡張はマーク・ジェイコブス起用によるファッションブランド化戦略開始まで、日本市場を範として進む事になる。今日に至るそのファッションブランド化戦略は当時のバブルに沸く米国市場を第一義としていたが、9.11テロとITバブルの崩壊によって再び日本市場軸に回帰している。
 「ルイ・ヴィトン」は工業文明の進化とともに旅行ライフスタイルを革新して機能性と耐久性への信頼を勝ち取り、同時に革新性と伝統の両面の名声を得て揺るぎないブランドとなったが、ブランド確立の起点となったモノグラム柄も大衆化の契機も成長へのビジネスモデルも皆、大なり小なり日本からやって来たという特殊事情がある。
 日本市場における「ルイ・ヴィトン」人気の根強さは、機能性と耐久性への信頼、革新性と伝統の両面の名声、フランス製品への憧れといった世界共通のブランド評価に加えて、モノグラム柄やダミエ柄への民族的な親しみ、日本人が国民的に憧れた最初の仏ブランドであったという刷り込みを忘れてはなるまい。合理的な価格設定がもたらした『高価だが手の届く機能的で耐久性のある生活用品』という認識に加え、このような経緯ゆえの親しみが“3人に一人”という普及率に至っても成長を継続する源泉となっているのではないか。
 この特殊事情は別として、「ルイ・ヴィトン」は魅力を維持・向上させるべく新商品開発を着実に積み上げて来た。機能的な新デザインの投入はもちろん、85年にはカラフルな“エピ”ライン、95年にはメンズ主体の“タイガ”ライン、96年にはダミエ柄の復刻(98年からレギュラーに)と鞄のラインナップを拡充。98年以降のファッションブランド化戦略ではエナメル加工の“モノグラム・ヴェルニ”ラインを加えるとともに、プレタポルテ、シユーズ、ステーショナリーを加えて鞄の「ルイ・ヴィトン」の枠を超え、機能性と耐久性に裏付けられたコンテンポラリーなフルライン・ラグジュアリーブランドへと脱皮した。
 今の「ルイ・ヴィトン」の勢いは鞄ブランドとしての根強い支持に98年以降のファッションブランド化戦略によるライン拡張と人気の拡がりが重なったものであり、商品ラインのさらなる拡充によって加速される事はあっても、円安で大幅に価格が上昇でもしない限り急激な冷却は考え難い。

四半世紀を要して磨き上げたビジネスモデル

 日本市場における「ルイ・ヴィトン」の強さはブランドそのものの魅力に加えてルイ・ヴィトン ジャパン独自のマーケティングとビジネスモデルによる所が大きく、全世界のルイ・ヴィトンでお手本にされているほどだ。それは76年のパリでの行列騒動をきっかけに米国の大手会計事務所ピート・マーウィックの東京事務所パートナー秦郷次郎氏(現ルイ・ヴィトン ジャパン社長、兼LVMHファッショングループ日本・ハワイ地区最高経営責任者)が提案した極めてSPA的な直販体制に基づいている。が、ルイ・ヴィトン社に世界的な成長をもたらしたこのビジネスモデルも一夜にして実現した訳ではなかった。
 当時はまだルイ・ヴィトン社が2店しか直営店を持っておらず卸しに依存する状態だったため、秦氏の提案は段階的に実行された。まず78年に日本支社を開設して商品供給を自社直輸入に統一。高島屋等6店の百貨店内ブティックに販路を絞った。売場と在庫を自社管理下に置いて店舗イメージも統一したが、この段階では売場も販売員も百貨店からの借り物だった。
 流通の一本化と販売拠点の集約によってコストが削減され、それまで百貨店や商社、並行輸入業者がそれぞれに買い付けて仏店頭の2〜3倍で販売していた価格を為替にスライドする1.4倍までの変動定価制に訂正。これによって『高価だが手の届く機能的で耐久性のある生活用品』という評価が定着し、普及率の上限が大きくかさ上げされて今日の巨大マーケットに成長する契機となった。
 81年にルイ・ヴィトン ジャパンを設立して秦氏が代表取締役に就任して以降、路面主体に直営店を開設していき、店舗運営と販売、顧客管理やロジスティックス等のノウハウを蓄積して時期を待った。そしてファッションブランドへの世界戦略が始まった98年、大阪心斎橋に直営7店目となる大型路面店を開設するのと前後して、百貨店内ブティックをすべて自社社員で運営する本当の直営店に切り替え始めた。同時にファッションブランド化戦略で拡張されたラインナップを展開すべく店舗の大型化、生産ラインから店頭フェイスまでのSCMを完結すべくバックヤードまでの標準化が始まった。
 バッグのみ展開する100坪級店、バッグ+靴展開の130坪級店、衣料品を加えた230坪以上のフルライン店の3タイプ(それぞれ売場面積の3割に相当するバックヤードを含む)への集約がそれだが、この過程で発生しているのが拡張不能な小型店の退店だ。2000年の東急本店、京都大丸に続いて、2001年秋には心斎橋大丸のブティックを閉鎖。70坪で年間23億円(坪効率3286万円)を売り上げる超高効率店を惜しげもなく捨て去るところに目的達成への戦略意志が伺える。
 9月1日の表参道旗艦店オープンで直営は8店舗に、百貨店内ブティック36店を加えた総店舗数は44店となったが、2000年から総店舗数は減少(8月に青山店と赤坂店を閉店)。2001年度の1店当り売上は26億2000万円に達し、92年度の13億3750万円からほぼ倍増している。ルイ・ヴィトン ジャパンは今後も拠点数を抑えて大型化と標準化、品揃えの拡充とイメージ向上、店舗運営とサプライの効率化を押し進め、ビジネスモデルに磨きをかけていくに違いない。
 秦氏が提案したラグジュアリーSPA構想は20年の蓄積を経てファッションブランドへの世界戦略によって成就の機会を得、店舗の標準化に加えて東西の物流センターを核としたロジスティックスが本格稼動すればビジネスモデルはほぼ完成する。一気呵成に駆け上がったかに見えるルイ・ヴィトン ジャパンのビジネスモデルだが、実にその完成には四半世紀を要したのである。

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